気候変動の時代に、「家族」という選択をどう考えるか
気候変動の時代、「子どもを持たない方がいいのか」という問いさえ聞かれる今。こうした議論が個人の選択へと回収されていく「脱政治化」の視点にも触れながら、最新研究をもとに、家族の選択と社会構造を問い直します。|by Erika Tomiyama
「気候変動が深刻な中で、子どもを持たない選択をした」──近年、特に欧州で暮らしている中でこうした声を見聞きすることがあります。2010年代、ジャーナリストのリサ・ハイマス氏は、環境への配慮から子どもを持たないという自身の選択を「GINK(Green Inclination, No Kids)」と名付け、最近でも再びSNSやメディアを通じて広がりつつあります。その背景にあるのは、単なる価値観の変化だけではありません。
「これから生まれてくる子どもたちは、どんな世界を生きるのか」
「人間が気候変動の一因であると知りながら、それでも命を迎えてよいのか」
未来への不安と、存在そのものへのためらい。二つの問いが、重なり合っているものです。
実際に、2021年に世界10カ国の1万人の若者を対象に行われた意識調査では、回答者の約4割が「気候変動を理由に子どもを持つことをためらっている」と答えました。イギリスでも、「子どもを欲しない」と考える35歳未満の成人のうち、約7人に1人が世界人口の増加を憂慮しているといいます。気候不安(エコ不安)は、いまや個人の人生設計を左右するほど深刻な要因となっているのです。
しかし、この「子どもを持つことが環境破壊になるのではないか」という主張に、どこか胸の奥が詰まるような感覚がありました。果たしてそれは、本当に私たちがこのままの形で引き受けるべきものなのだろうか、と。
2026年4月に学術誌『Environmental Research Letters』に掲載された、エマニュエル・ポン氏による最新のレビュー論文は、この複雑な議論に冷静な視点を与えてくれます。同論文は、これまで世界中で引用されてきた「出産のカーボンフットプリント(生殖の炭素足跡)」に関する26の研究を批判的に分析したものです。そこで明かされたのは、「子どもを持つことが最大の気候負荷である」という言説の根拠とされてきた数字がいかに不確実で、多くの誤解を含んでいたかという事実でした。
「子ども=最大の気候負荷」という前提は正しいのか
象徴的なのは、2017年に英ガーディアン紙が『気候変動と戦いたい? ならば子どもを少なく持とう(Want to Fight Climate Change? Have Fewer Children)』という刺激的な見出しとともに報じた、「子どもを1人持たないことで、親1人あたり年間約60トンのCO2排出を減らせる」という数字。当時、このニュースは「リサイクルや節電よりも圧倒的に効果が高いアクション」として世界中で話題となり、「子どもを持つ=最大の気候負荷」というイメージを強く植え付けました。
しかしポン氏の論文は、この数字が「短期的な年間消費排出量」と「数世代先までの子孫の排出を合算した長期的な炭素の遺産」を混同していると指摘しています。「60トン」という絶望的な数字は、私たちがこのまま何の対策もせずに数百年先まで化石燃料を燃やし続けるという「最悪のシナリオ」を前提としたものでした。
同論文によれば、現実的な条件下での追加排出量は、スウェーデンで年間0.7トン、日本で年間0.5トンに過ぎません。さらに脱炭素が進めば、フランスでは約1トン程度まで低減する可能性も示されています。
ここから見えてくるのは、「子どもを持つことそのもの」が問題なのではなく、「どのような社会に生きるか」が排出量を決定づけているという事実です。
問題は「人間の数」ではなく、「社会の構造」にある
ここで私たちが向き合わなければならないのは、「子どもを一人産むこと」そのものが悪なのではなく、「一人の人間が、一生の間にどれだけの炭素を排出せざるを得ない社会に生きているか」という構造の問題ではないでしょうか。
気候変動の主な要因は単なる「人間の数」ではなく、世界で最も豊かな10%の人々が世界の排出量の約半分を占めているという「過剰消費」にあります。人口増加が著しい低所得国の排出量は極めてわずかであり、責任の大部分は私たち先進国のライフスタイルに帰せられるべきものなのです。
ポン氏の論文が強く警鐘を鳴らすのが、消費ベースの炭素会計がもたらす「脱政治化(Depoliticizing)」。気候変動の責任を「産むか・産まないか」という個人の最もプライベートな決断にすり替えることは、本来責任を負うべき政府や化石燃料産業の不作為から目を逸らさせる逆効果を招きかねません。論文にはこう記されています。
「前の世代の無策のせいで、若い世代が出産を諦めることを期待するのは特に不公平である」
上の世代が環境対策を怠ってきたツケを、若い世代の「人生の選択の放棄」で支払わせる社会であってはならないのです。
人間は「排出ユニット」ではない。未来を変える主体へ
また、一人の人間が社会に及ぼす影響は、排出量という一つの側面だけで測りきれるものではありません。家族であり、隣人であり、市民であり、そして未来の社会を編み上げていく主体である──人間を環境に対する「負債」としてのみカウントする計算は、私たちが持ちうる知性やケアの力、つまり社会をポジティブに変えていく可能性を無視してしまっています。
もちろん、気候不安の中で未来を案じ、真剣に生き方を問い直す人々の誠実さは、決して否定されるべきものではありません。ただ、大切なのは生命を否定することではなく、生命がその可能性を存分に発揮できる土壌を整えることにあるはずです。だからこそ必要なのは、この問いを個人の内面だけに閉じ込めないこと。いま私たちが問うべきは「産むか産まないか」という個人の選択ではなく、「生命そのものを祝福できるような社会をどうつくるか」ではないでしょうか。
昨日、4月22日は地球環境について考える「アースデイ」でした。気候危機という途方もない課題を前にすると、私たちはつい「人間の存在そのものが地球への負荷だ」と思い詰めてしまいがちです。しかし、ポン氏の論文は最後にこう結ばれています。
“Ultimately, the value of a human life cannot be captured by numbers alone.”(最終的に、人間の命の価値は数字だけで測ることはできない)
子どもたちが「生まれてきてよかった」と心から思える地球へ整えること。そのための選択と責任を、個人だけでなく社会全体で引き受けていくこと。その希望ある営みの中にこそ、私たちがサステナビリティを追求する意味があるのだと思います。
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