6/20は難民の日。“排除”の風が強まる今、誰もが「ただそこにいて良い」社会へ
世界難民の日に寄せて。外国人をめぐる議論が過熱する今、その背景にあるのは単なる偏見ではなく、私たち自身の不安や生きづらさかもしれません。排除の先にある社会ではなく、誰もが「ただそこにいていい」と思える社会について考えます。|by Tomoko
今週6月20日は「世界難民の日」。
近年、日本では外国人をめぐる議論が、これまで以上に可視化されています。SNSでは外国人犯罪や生活保護、不法滞在などの話題が拡散され、「これ以上受け入れるべきではない」という声も少なくありません。
もちろん、その背景には単なる偏見やデマだけではない現実があります。
深刻な人手不足などを背景に、日本で暮らす外国人の数は増え続けています。一方で、国や自治体による受け入れ体制や地域での支援の仕組みづくりは十分とは言えず、生活習慣の違いや行政サービスの負担増など、そのしわ寄せが現場に集まりやすい状況もあります。
「自分たちの生活も苦しいのに、これ以上負担を背負いきれない」
そうした不安や疲弊感を抱く人がいることもまた事実でしょう。しかし、その不満の矛先が外国人そのものへ向かったとき、見えなくなってしまうものがあります。
それは、同じ社会のなかで生きる一人ひとりの人生や事情、そして制度が生み出している矛盾です。
現在、日本では外国人労働者の受け入れが過去最高水準に達する一方で、外国人に対して、より厳しい視線が向けられています。最近でも、茨城県で導入された不法就労の通報報奨金制度や、在留・永住資格の更新手数料の大幅な引き上げなど、「管理」と「選別」を強める政策が進んでいます。
なかには長年日本で暮らし、働いてきたにもかかわらず退去を求められる人や、日本で生まれ育った子どもたちが親の出身国への帰国を迫られるケースもあります。また、難民申請者などの非人道的な入管収容、働くことも公的な支援を受けることも許されない「仮放免」状態で、生活の基盤そのものを失っている人々もいます。
「人手は必要とされる一方で、困難な状況に置かれたときには支援の手が届きにくい」
そんな矛盾を前にしたとき、筆者のなかには一つの問いが残りました。
「なぜ、私たちは他者とともに生きることを、これほど難しく感じるようになったのだろう?」
外国人排除の問題について考えていたはずなのに、気づけば問いは、私たち自身へと返ってきました。そして、思ったのです。背景にあるのは、効率よく、生産的であることが求められる社会や、タイパ・コスパが重視され、常に何かの成果を出し続けることが期待される日常。社会に広がる「生産性至上主義」や「自己責任」の空気ではないではないか、と。
そんな環境のなかでは、「税金を納めている自分たちばかりが負担を強いられている」という感覚が生まれることも不思議ではありません。けれど、その感情の奥には別の不安も潜んでいるように思います。
もし病気になったら。
もし仕事を失ったら。
もし老後に十分な保障を受けられなかったら。
私たち自身もまた、「役に立たなくなった瞬間に切り捨てられる側」になるかもしれない。他者への怒りや拒絶の背景には、そうした恐れが隠れていることもあるのではないでしょうか。
私たちは他者が憎いわけではないのかもしれません。むしろ、自分自身も同じ天秤にかけられることに怯えている。だからこそ、自らを追い立てている厳しい物差しを、知らず知らずのうちに他者にも向けてしまうのだと思うのです。
外国人か日本人か。支援する側かされる側か。そうした違いの前に、私たちは皆、「いつ居場所を失うかわからない」という不安を抱えながら生きている存在なのかもしれません。
人間が本当に安心して生きるために必要なこと。それは、何かをして価値を生み出す「Doing」だけではなく、何もしていなくても、ただ生きてそこにいる「Being」が認められることではないでしょうか。
誰もが、働けなくなる日があるかもしれない。
助けを必要とする側になる日が来るかもしれない。
社会の多数派ではなくなる瞬間が訪れるかもしれない。
それでも、「あなたはここにいていい」と言われること。
それは難民や外国人だけに必要なものではありません。子育てに追われる人も、介護を担う人も、失業した人も、病気や障害を抱える人も。そして、いつか役割や肩書きを手放していく私たち自身もまた、その安心を必要としています。
だからこそ、「ただそこにいて良い」と認め合える社会は、誰かのための優しさだけではなく、私たち一人ひとりが安心して生きていくための土台なのだと思うのです。
世界難民の日。
誰かを理解することは簡単ではありません。それでも、知ろうとすること、対話しようとすること、そして自分自身を縛る「生産性のものさし」を少しだけ緩めてみること。
そんな小さな一歩の積み重ねが、「ただそこにいて良い」と言い合える社会につながっていくのではないでしょうか。
新特集に向けて|読者の皆さんの「働くモヤモヤ」を聴かせてください
最近、「働くこと」や「会社・組織のあり方」について、モヤモヤしたことはありますか? たとえば、意思決定のされ方、利益の分配、評価や給与の仕組み、働く人の扱われ方などについて、日々の仕事やニュースを通じて感じたことがあれば、自由にお聞かせください。
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◆数年前まで二宮尊徳の言った徳と富の乖離が激しくなったと感じていた。しかし、ブロックチェーンとAI技術によってコミュニティの再構築のようなことが起こっていると今は感じています。利己的ではなくコミュニティと共に成長する自己がこれからの働くことへのモチベーションになっている気がする。
◆IDEAS FOR GOODの記事で見た「脱成長」など、そのような姿勢を大事にしていくべき気がしているし、疲れるばかりで「人生とは?」となりかけています。でも、「脱成長」は難しそう。夫は会社での立ち位置とか、お金のために働くとか、子供を育てるのにお金が必要とか、そもそも成長が大好きなので、対話が難しく、「働くこと」「人生を生きること」に行き詰まっています。
◆地域で活動していると、「誰のために、何のためにやるのか」がとてもはっきりしています。その手応えがある一方で、組織の中に入ったときに、役割や前例、仕組みが先に来てしまい、「それって結局、誰の価値になっているんだっけ?」と感じる場面があります。また、「働く」ということが、時間や場所に縛られた“作業”として扱われがちなことにも違和感があります。
◆いち担当者の意見はほぼ言えない。伝わらない。ほぼ全て、上司が決める。一番の事例が、売り上げ目標。
◆こんなにたくさんの人が頑張って働いるのに、社会や世界がよくなった、幸せの総数が増えた、と実感できる瞬間が少ない
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